2025
28
Sep

未分類

エッセイ/贈りもののような時間

岩山雲海

20年前、同窓会をきっかけにブログを始めた。
あの頃の自分は、何かを記録したいというよりも、何かを残しておきたいという気持ちのほうが強かったように思う。
記憶は曖昧で、思い出は断片的だったけれど、それでもその時の空気や感情を、言葉にしておきたかった。
誰かに読んでもらうことを意識しながらも、どこかで「これは自分のための記録だ」と思っていた。
それは、過去の自分との対話であり、未来の自分への手紙のようなものだったのかもしれない。

ブログには、同窓会の準備や幹事会の様子、再会の喜び、そして何気ない日常の出来事が綴られていた。
文章は率直で、時に感情的で、時にユーモラスだった。
「すげーじゃん、おれ」と自分にツッコミを入れたり、「まずい」と反省したり、
その語り口には、飾らない自分がいた。
誰かに見せるための文章ではなく、自分が感じたことをそのまま差し出すような、そんな言葉たちだった。

今読み返すと、あの頃の自分はずいぶんと感情に忠実だったと思う。
嬉しいことは嬉しいと書き、悔しいことは悔しいと書く。
記憶が曖昧なことも、はっきり覚えていることも、どちらも大切に扱っていた。
それは、今の自分にも通じる部分がある。
写真を撮るようになってから、言葉の使い方は少し変わったけれど、
「その瞬間を大切にしたい」という気持ちは、ずっと変わっていない。

写真に添える言葉は、説明ではなく余白になった。
「これはこういう写真です」と語るのではなく、
「この瞬間に、こんな空気が流れていました」とそっと置いておくような言葉。
見る人が、自分の記憶や感情を重ねられるように、静かに差し出す。
それは、かつてブログで綴っていた「自分のための記録」とは少し違うけれど、
「誰かと共有することで意味が生まれる」という点では、根っこは同じなのかもしれない。

最近は、岩山展望台に何度も足を運んでいる。
同じ場所でも、訪れるたびに違う表情を見せてくれる。
朝の光、風の強さ、雲の流れ、季節の匂い——
そのすべてが、写真に写るかどうかはわからないけれど、
その場に立っていると、確かに「今ここにいる」という感覚がある。
それを残したくて、シャッターを切る。
そして、あとからその写真に言葉を添える。
「この瞬間にしか咲かない光」
「午後二時、風とコスモスと」
そんなタイトルをつけることで、写真の奥にある時間や気配を伝えようとしている。

20年前のブログには、そんなタイトルはなかった。
文章の中にすべてが詰まっていて、タイトルはただの入り口だった。
でも今は、タイトルそのものが余白になっている。
見る人が、そこから何かを感じ取ってくれるように、
言葉を選ぶことにも、少しずつ時間をかけるようになった。

写真を撮るようになってから、言葉の使い方が変わっただけでなく、
「見る」という行為そのものへの意識も変わった。
かつては「見られること」を意識していた。
誰かに読まれること、誰かに伝わること。
でも今は、「見ること」そのものが、自分にとっての営みになっている。
風景を見る、光を見る、人の表情を見る。
そして、その中にある「静かな時間」を見つける。
それは、写真を撮るというよりも、
「その場に立ち会う」ことに近い。

ブログを書いていた頃の自分は、どこかで「語らなければ伝わらない」と思っていた。
だから、言葉を尽くしていた。
でも今は、「語りすぎないこと」が、時にもっと深く伝わることを知った。
それは、写真を通して学んだことでもあるし、
人との関係の中で感じたことでもある。

写真を撮るようになってから、もうひとつ変わったことがある。
それは、「繰り返し訪れること」の意味。
同じ場所に何度も足を運ぶことで、見えてくるものがある。
季節の変化、光の角度、風の匂い。
そして、自分自身の変化。
前回訪れたときの自分と、今回の自分は、少し違っている。
それが、写真にも言葉にも、静かににじみ出る。

たとえば、雲海の朝。
街が雲の海に沈み、鉄塔だけが静かに顔を出していた。
その風景を見たとき、「これは贈りものだ」と思った。
誰かが用意してくれたわけではないけれど、
その瞬間に立ち会えたことが、ただただありがたかった。
そして、その感覚を写真に残し、言葉にした。
「雲海に立つ、ひとつの輪郭」
そのタイトルには、風景の静けさと、自分の感情の輪郭が重なっている。

20年前の自分がブログに綴っていたのは、
「誰かと共有したい記憶」だった。
今の自分が写真に添えているのは、
「誰かと共有できる余白」なのかもしれない。
どちらも、誰かに届くことを願っている。
でも、その届き方は少し違っている。

あの頃の自分は、言葉で世界を説明しようとしていた。
今の自分は、言葉で世界を包み込もうとしている。
それは、年齢のせいかもしれないし、経験のせいかもしれない。
でもきっと、写真という表現に出会ったことが大きい。
写真は、語らない。
でも、語らないからこそ、見る人の中に物語が生まれる。
そのことを知ってから、言葉の使い方が変わった。

今でも、文章を書くことは好きだ。
ブログのように長く書くこともあるし、
写真に添える短いコメントを書くこともある。
どちらも、自分の中にある「伝えたいもの」を形にする営みだ。
そして、その営みの中で、自分自身と向き合う時間が生まれる。

20年前のブログは、今の自分にとって宝物だ。
そこには、当時の自分の声がある。
その声は、今の自分とは少し違うけれど、
確かに自分の中に残っている。
そして、今の自分の声と重なり合いながら、
これからの言葉や写真を支えてくれている。

過去と現在は、いつも静かにつながっている。
そのつながりの中で、言葉を紡ぎ、写真を撮り、
誰かにそっと差し出す。
それが、今の自分の表現のかたちなのだと思う。

写真を撮ることは、記録であり、対話でもある。
風景との対話、時間との対話、そして自分自身との対話。
その中で、言葉が生まれる。
言葉は、写真の補足ではなく、もうひとつの窓のようなもの。
見る人が、その窓からそっと覗き込んで、
自分の記憶や感情を重ねてくれるような、そんな存在でありたい。

20年前のブログには、そんな窓がたくさんあった。
言葉の奥に、当時の空気や人の気配が漂っていた。
今の自分が写真に添える言葉にも、
その頃の語り口が、静かに息づいている気がする。
率直さ、親しみやすさ、そして少しのユーモア。
それらは、時間を超えて、自分の中に残り続けている。

そして今、写真を通して出会う人たちにも、
そんな言葉が届いてくれたら嬉しいと思う。
「この写真、なんだか懐かしい気持ちになる」
「自分の記憶と重なった」
そんな声を聞くと、言葉を添える意味を改めて感じる。
それは、過去の自分がブログで感じていた「誰かと共有する喜び」と、
まったく同じものなのかもしれない。

これからも、同じ場所に何度も足を運ぶだろう。
そして、同じように写真を撮り、言葉を添えるだろう。
その営みの中で、自分自身も少しずつ変わっていく。
でも、変わることを恐れずに、
その変化を受け入れながら、
静かに、丁寧に、記録していきたい。

過去と現在が、ゆるやかにつながっているように、
言葉と写真も、ゆるやかにつながっている。
そのつながりの中で、誰かと出会い、
何かを共有できることが、今の自分にとっての喜びだ。

贈りもののような時間は、いつも突然やってくる。
それを受け取る準備ができているかどうかは、自分次第。
だから、今日も静かに目を開いて、
風の音に耳を澄ませて、
光の変化に気づけるように、
心を整えて、カメラを構える。
そして、撮った写真に、そっと言葉を添える。
それは、今の自分の表現のかたち。
そして、これからも続いていく、静かな営み。

やがて誰かが、その写真に目を留めてくれるかもしれない。
その言葉に、ふと立ち止まってくれるかもしれない。
そして、まったく違う場所で、まったく違う時間に、
その人の記憶と、私の記憶が、静かに重なる瞬間が訪れる。

それこそが、私にとっての表現の意味だ。
過去と現在が、見知らぬ誰かとつながるための、
小さな橋になること。
その橋を、今日も一本、そっと架けてみる。
風の中で、光の中で、
誰にも気づかれなくても、確かにそこにあるように。