
戸隠神社・奥社、二十年後の再訪

戸隠神社・奥社、二十年後の再訪

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戸隠神社・奥社、二十年後の再訪

戸隠神社・奥社、二十年後の再訪

戸隠神社・奥社、二十年後の再訪

戸隠神社・奥社、二十年後の再訪

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戸隠神社・奥社、二十年後の再訪

戸隠神社・奥社、二十年後の再訪
戸隠神社・奥社、二十年後の再訪
参道を戻るころには、日も少し高くなっていた。来たときと同じ道を歩いているはずなのに、帰りはなぜか違って見える。木々の立ち方が変わったわけでも、光の差し方が劇的に変わったわけでもない。景色そのものには、何の変化もない。ただ、そこを歩いている自分のほうに、わずかな変化が生じている。その程度のことなのだろうが、その程度の違いが、風景の見え方を変えてしまうことがある。
往復で数キロ、一時間以上を使った。観光でもない。ロケハンでもない。写真を撮るための下見というわけでもない。では何だったのかと聞かれると、やはりうまく説明できない。ただ、外を歩きながら、いつの間にか自分の内側まで歩いていたような、そんな時間だった。
そう考えると、カメラを持ってきたことが少し可笑しくなる。写真を撮る必要など、本当はなかったのだ。それでも、出掛けるときには自然にカメラを手にしていた。理由を考えるより先に、身体がそうしていた。
まあ、性ですね。笑
「撮りたい症候群」は、どうやらどこへ行ってもついてくるらしい。
この場所を最初に訪れたのは、20年前だった。
もちろん、きっかけになった出来事はあった。何もないところから、突然ここへ行こうと思ったわけではない。けれど、あとから考えてみても、その出来事だけでは到底説明しきれない何かが残る。
なぜか、ここへ行きたくなったのだ。
「行ったほうがいい」という程度の感覚ではなかった。もっと曖昧で、それでいて妙に抗いにくいものだった。
「行かなければならない」。
そんな感覚だった。
人は普通、理由があって行動する。何かを見て、何かを考え、その結果として行動に移る。ところが、ときどきその順序が逆になることがある。先に心が動き、後から頭が理由を探し始める。理屈というものは、案外そういうときに都合よく現れる。
今回も、どうやらそれに近かったのだと思う。
20年間、いろいろなことがあった。生活も変わったし、考え方も変わった。あのころとは、自分を取り巻くものも、自分自身も、ずいぶん違っている。それでも、この場所へ行かなければと思ったことは、一度もなかった。
だからこそ、今回のことが少し気になっている。
なぜ、今だったのだろう。
きっかけは分かっている。けれど、それが本当の理由なのかと問われれば、自信を持ってそうだとは言えない。人間は、自分がなぜそうしたのかについて、案外正確には分かっていないのかもしれない。行動したあとになって、それらしい理由を組み立てているだけということもある。
自分では、こういうものを時々「呪文」と呼んでいる。
意識して唱えたわけでもない。誰かに言われたわけでもない。それなのに、いつの間にか自分の中に入り込み、気がつけば足をそちらへ向かわせている。そういうものが、人の中にはいくつかあるのかもしれない。
そして、不思議なことに、行くと決めてからは何もかもが妙にうまく進んだ。
仕事の連絡もない。電話も鳴らない。メールも来ない。普段なら一つくらい割り込んできそうな用事も、この日に限っては何も起こらなかった。
もちろん、偶然だ。
そう思っている。
ただ、「偶然」という言葉は、少しばかり便利すぎる。説明できない出来事を、ひとまとめにしてしまうことができるからだ。偶然だったと言ってしまえば、それ以上考えなくても済む。だからこそ、時にはその言葉を使うこと自体が、考えることを放棄しているようにも思える。
今回、何かの答えが見つかったわけではない。長いあいだ抱えていた疑問が解消されたわけでもなければ、何か特別な出来事が起きたわけでもない。
ただ、ここまで来てみると、「これでいいのかもしれない」と思えた。
それ以上の意味を求める必要はないのかもしれない。少なくとも、ここへ来る前にはなかった感覚が、今は自分の中にある。それだけでも、来た意味はあったような気がする。
ともあれ、大事はよき道へ進め。
その言葉を思い出すと、何か大げさな啓示を受けたような気持ちになるわけではない。ただ、自分がこれから進もうとしている道について、ほんの少しだけ視界が開けたような感覚はある。
では、このままもう少し先へ進んでみることにする。
松本へ向かう。
そして、その先には上高地がある。
何が待っているのかは、まだ分からない。そもそも、何かが待っている必要すらないのだと思う。目的地に意味があるのか、それともそこへ向かう途中に意味があるのか、それさえ今は決める必要はない。
分からないからこそ、行ってみる。
旅というのは、案外そういうものなのかもしれない。

